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暁橋のたもとから

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離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

今年もまた、暑い夏が巡って来ました ・・・。



 今年は、去年にも増して梅雨明けが遅く、7月30日に広島気象台が、「梅雨明けをした模様・・・」と、曖昧な梅雨明け宣言をしたのですが、午前中は陽射しも強く、噎せ返る様な暑さだったのですが、午後から天気は急変し、入道雲と重い雲が忽ち広がって、激しい土砂降りに成り、夕方には上がりました。



 雨に成ったからと言って、気象台の方に文句を言う心算は有りません。



 あれは間違いなく、「夏の夕立」であって「梅雨の雨」ではありませんでしたから・・・。




 儂は、夏が大嫌いです。




 しかし、『あと何年、夏を迎える事が出来るじゃろぉか?』と、ふと思う時、大嫌いな夏を、愛おしくさえ思える、不可思議な自分の存在を感じます。



 特に、今年の様に、新型コロナウィルス感染症が猛威を振るい、『もしかしたら、既にウィルスに感染していて、数日後には重篤な状態に陥って死ぬかも知れん。』と、考えた時、その思いは一入強く成る様です。



 戦後、75年を迎え、8月6日に纏わる、様々な世の中の動きを見聞きし、感じる事が多くなりましたが、今年は、新型コロナウィルスに関連した話題や報道ばかりが世に溢れ、原爆や反核平和に関連した報道などは、例年に比べると少ない様です。



 そんな中で、長年の懸案であった、『黒い雨訴訟』に対する判決が、7月29日、広島地裁で行われ、高島義行裁判長は原告の訴えを認め、原告84人全員に手帳の交付を命じ、原告側の全面勝訴と成った事は、特筆すべき出来事だったでしょう。



 儂は、ここ数年、8月1日から8月15日の間は、原爆や反核平和に関連した過去のブログの記事を、アーカイブとして掲載して居ります。



 今年も同じ記事を、「アーカイブ」として予約投稿致しました。



 既に御購読くださった方も居られるでしょうが、亡くなった父や、早くに逝って仕舞った友人達から『託された行いの一つ』として、娘や儂の善き隣人に届けます。





【2011年8月15日 掲載記事】【7月30日・予約投稿】









 今日、8月15日は、「終戦記念日」です。





 とは言うものの、「終戦記念日」と言う祝日は有りませんし、国としても、正式に、「終戦記念日」と言うものを定めて居りません。




 但し、日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催しています。






昭和20年(1945年)8月15日、昭和天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」が朗読放送(玉音放送)されました。





この事を以て、一般的には、8月15日を、「終戦記念日」もしくは「終戦の日」としている様です。







 玉音放送の原文である 「大東亞戰爭終結ノ詔書」 ⇦ 此処をクリック







玉音放送 昭和天皇 終戦の詔書 大東亜戦争終結ノ詔書 ⇦ 此処をクリック






全国戦没者追悼式




 父(昭和9年生まれ)は、終戦の日には、恐らく私が物心のつく以前から、必ず同じ話をしました。






 「ぼうぶらの話」です。





 広島では、カボチャの事を、「ぼうぶら」と呼びます。





 但し、戦前生まれの年配の方だけでしょうが・・・。





 父の話を、そのまま伝えますと、濃度の濃い広島弁に成りますし、非常に長く成りますので、「ぼうぶらの話」として、纏めてみました。





 「ぼうぶらの話」 



 「ぼうぶら」とは、カボチャの古い呼び名です。


 昭和20年8月15日(水曜日)の朝、正夫君は、お父さんに連れられて、お家の在る音戸の港から、お父さんが操縦する漁船に乗って、倉橋島の波多見と言う小さな漁港に行きました。


 お父さんが獲った魚を、お百姓さんの所に持って行き、米や野菜と交換して貰う為でした。


 戦争中の物の無い時代でしたが、正夫君の家は、お父さんが獲った魚を、お百姓さんが、米や野菜と交換して呉れるので、食べ物に困る事は有りませんでした。


 そして、お百姓さんも、自分が作った米や野菜と、魚を交換して貰えるので、お金を使わなくて済みますから、とても助かっていたのでした。

 港に着くと、お父さんが明け方に獲った、沢山の魚を荷車に積んで、山の麓に在る、お百姓さんの家に運んで行き、米一斗と、荷車一杯の沢山のぼうぶらと交換して貰いました。


 正夫君は、甘いぼうぶらの煮物が大好きでしたし、お姉さんが作って呉れる、ぼうぶらの羊羹も大好きでしたから、とても喜びました。


 お百姓さんの家から、港に戻った頃には、もう、お昼を過ぎて居りました。


 港に戻ると、先ずさきに、お父さんは、交換して貰った米を、誰にも見られない様に、舟板の下に隠しました。


 米は、統制品と言って、役所の許可無く取引をする事が、厳しく禁止されていたからでした。


 それから二人で、一個ずつ、丁寧に、カボチャを荷車から舟に運んで居りました。


 すると、「待て!待て!待て!・・・」と、叫びながら、5,6人の男達が、ガンギ(桟橋や海へ下りる石の階段)の上側に駆け寄って来ました。


 「待った、待った。・・・あんたぁ、その、ぼうぶらを持ってく事ぁならんで・・・」と、一人の男が言いました。


 見ると、いつも親切にしてくれている、青年団の人達でした。


 しかし、皆、いきり立った表情をして、手には、天秤棒や鍬を持って構えて居ました。


 お父さんは、「あんた等ぁ何事かいのぉ?…このぼうぶらは、そこの△△さん方で、儂の魚と換えて貰ぉたモンなんでぇ・・・何ぃ言ぃよりんさるんの?」と、言いましたら、


 「そがぁな事ぁ判っちょらぁ‼・・・あんたぁ知らんのんか?・・・さっき、ラジオの放送で、天皇陛下様が、日本は、アメリカやらに降伏する言ぅて言いんさったんじゃ。・・・日本は戦争に負けたんじゃ。」


 「そぉじゃ!・・・じゃけぇ、どがいな事になるやら分からんけぇ、食い物を持って行かせる訳にゃぁいかんのんじゃ‼」と、別の男も言いました。


 お父さんは、男たちの話を黙って聞いて居ましたが、「ほぉかぁ・・・そぉ言ぅ事なら、しょぉが無ぁですのぉ・・・ぼうぶらは置いて行きますわい。」と、言いますと、男達は舟に乗り込んで、さっき運んだばかりの、ぼうぶらを取って行きました。


 荷車の中のぼうぶらも、持って行きました。


 港を見回すと、野菜などを運び出そうとしていた他の舟も、男達に捕まって、米や野菜を取り上げられていました。


 お父さんと正夫君は、空っぽになった舟に乗って、音戸の港に帰って行きました。


 正夫君は悲しくて悔しくて、舟の胴の間で体育座りをして、両膝を抱えて顔を埋め、オイオイと泣いて居りました。


 ふと、舟を操縦している、お父さんをチラリと見ると、ずっと黙った儘でしたが、麦藁帽子の間からジワジワと汗を流しながら、両目からも涙が流れて居るのが見えました。


 お父さんは、それを拭う事も無く、じっと前を向いたまま、舟を操縦していました。


 正夫君は、お父さんが泣くのを初めて見ました。


 海軍少尉だった一番上のお兄さんが戦死した時も、二人のお姉さんが空襲で死んだ時も、嘉人兄さんが原爆で死んだ時も、涙を見せた事は有りませんでした。


 正夫君は、見てはいけない物を見た様に思えて、余計に悲しくなって、また両膝に顔を埋めて泣いて居りました。


 家に帰ると、お父さんは、仏壇の前に正座すると、お母さんと妹や、お兄さん達や、お姉さん達の写真に向かって、「すまんのぉ・・・すまんかったのぉ・・。」と語りながら、一人一人の位牌をさすって居りました。


 正夫君が、「父さん、日本が戦争に負けたけぇ言ぅて、何でオジサン等は、儂等のぼうぶらを取って行くんじゃ。・・・そりゃぁ間違ぉちょる。・・・儂ゃぁ悔しゅぅてならんのじゃ‼」と、言いましたら、お父さんは、


 「えぇか、正夫!・・・あの人等を恨んじゃぁいけんど‼・・・しょぉが無ぁんじゃ・・・戦争に負ける言ぅなぁ、こぉ言ぅ事なんじゃ・・・今は辛抱せぇよ・・・辛抱していかにゃぁならんのんじゃ・・・死んだ人等のためにものぉ‼」と、正夫君の両肩をしっかりと掴んで、抱き寄せて言いました。


 正夫君は、その日の事を、決して忘れる事が出来ませんでした。


 その日から、あの日の辛い気持ちが思い出されて、耐えられなくなるので、正夫君は、ぼうぶらを食べる事が出来なく成りました。


 ( お し ま い )



音戸の瀬戸




 私は、幼い頃から、この話を、毎年、8月15日になると、父から聞かされて参りました。




 子供の頃から父の話を聞いて居ましたし、我が家の食卓に上った事が在りませんでしたし、食わず嫌いと言うのでしょうか、私はカボチャを食べません。




 子供の頃、「戦争に負けたのに、何で敗戦記念日じゃ無ぉて終戦記念日なんかねぇ?と、父に聞きましたら、



「日本はのぉ、本土決戦言ぅて、日本の国でアメリカやらを迎え打って戦う心算じゃったんよ。


 じゃが、それをしたら、大勢の日本人が死ぬ事に成るし、相手の国の兵隊さんも死ぬ事に成るけぇ、それを天皇陛下様が御望みに成りんさらんかったけぇ、ポツダム宣言 ゆぅアメリカやらの言ぅ事を受け入れて、戦争を終わらして、それを、玉音放送 言ぅて、自分の言葉で国民全員に戦争の終わりを知らして呉れんさったんよ


 日本は、戦争に負けそうなかったが、負けた訳じゃぁ無ぁんで、・・・あのまま、本土決戦に持ち込んじょったら、若しかしたら、アメリカやらも諦めて、戦争が終っちょったかも知れん。


 じゃが、大勢の日本人や敵国の兵隊が死んじょったじゃろおて・・・お父さんも死んじょって、アンタ等も産まれちょらんかも知れん。


 天皇陛下様は、国民だけじゃぁ無ぉて、敵国の兵隊の命も守ってくださったんじゃ。


 アンタ等の命ものぉ・・・それに、産まれて来たアメリカやらの子供等の命もじゃ。」と、話して呉れました。




 父の話は、史実と多少異なる部分は在りますが、当時、小学生だった私には解り易く、今も大筋では此れが真実だと考えて居りますし、右翼思想の持ち主では在りませんが、昭和天皇に大恩を抱いて居りますし、今上天皇陛下を御尊敬申し上げて居ります。




以前から、8月6日の「広島の原爆の日」から、8月9日長崎原爆の日8月15日の「終戦記念日」までを、「平和週刊」として休日とし、戦争や平和について学び考え、お盆でもある事から、先祖の墓参りや戦没者の供養をし、平和な世を築く礎と成ってくださった事に感謝し、「世界の恒久平和」実現の為に、国民一人一人が何を為し、どう生きるべきかを考える機会とする事を望んで居ります。




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宮沢 賢治先生




 私が幼少の頃から、心の師として敬愛させて戴いて居ります、宮沢賢治先生が、「農民芸術概論綱要」の中に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉を残されて居ります。



 この言葉を逆から申しますと、「不幸な個人が在るうちは世界平和とは言えない」とも申せましょうか。




 特定の国や個人だけが、豊かで慈愛に満ち溢れた生活をできて居たとしても、それは、真の幸福ではないと言うのです。



 これは、とても厳しく、実現不可能と思われる言葉です。




「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉は、単独で語られる事が多いのですが、この言葉の真意を掴む為には、「農民芸術概論綱要」に込めた宮澤先生の思いを理解する必要があると考えます。




 「農民芸術概論綱要」は、序論から結論に至る、十項目に分けられた短い文章ですが、宮澤先生が残された作品の中でも、非常に難解な作品の一つです。




「般若心経」の様に深遠で、これを専門に研究しておられる学者の方も居られる程で、今から85年前(1926年・大正15年又昭和元年)に表された作品ですが、愚者である私には、理解し得ない境地に在る様です。





 とは言え、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉の中に、私の求める「恒久平和の形」が有る様に思います。・ ・ ・ 暁橋のたもとから



# by sakananoojisan | 2020-08-15 12:00 | 反核・平和 | Comments(2)

今年もまた、暑い夏が巡って来ました ・・・。



 今年は、去年にも増して梅雨明けが遅く、7月30日に広島気象台が、「梅雨明けをした模様・・・」と、曖昧な梅雨明け宣言をしたのですが、午前中は陽射しも強く、噎せ返る様な暑さだったのですが、午後から天気は急変し、入道雲と重い雲が忽ち広がって、激しい土砂降りに成り、夕方には上がりました。



 雨に成ったからと言って、気象台の方に文句を言う心算は有りません。



 あれは間違いなく、「夏の夕立」であって「梅雨の雨」ではありませんでしたから・・・。




 儂は、夏が大嫌いです。




 しかし、『あと何年、夏を迎える事が出来るじゃろぉか?』と、ふと思う時、大嫌いな夏を、愛おしくさえ思える、不可思議な自分の存在を感じます。



 特に、今年の様に、新型コロナウィルス感染症が猛威を振るい、『もしかしたら、既にウィルスに感染していて、数日後には重篤な状態に陥って死ぬかも知れん。』と、考えた時、その思いは一入強く成る様です。



 戦後、75年を迎え、8月6日に纏わる、様々な世の中の動きを見聞きし、感じる事が多くなりましたが、今年は、新型コロナウィルスに関連した話題や報道ばかりが世に溢れ、原爆や反核平和に関連した報道などは、例年に比べると少ない様です。



 そんな中で、長年の懸案であった、『黒い雨訴訟』に対する判決が、7月29日、広島地裁で行われ、高島義行裁判長は原告の訴えを認め、原告84人全員に手帳の交付を命じ、原告側の全面勝訴と成った事は、特筆すべき出来事だったでしょう。



 儂は、ここ数年、8月1日から8月15日の間は、原爆や反核平和に関連した過去のブログの記事を、アーカイブとして掲載して居ります。



 今年も同じ記事を、「アーカイブ」として予約投稿致しました。



 既に御購読くださった方も居られるでしょうが、亡くなった父や、早くに逝って仕舞った友人達から『託された行いの一つ』として、娘や儂の善き隣人に届けます。




【2015年8月9日 掲載記事】【7月14日・予約投稿】

平和への祈りを込めて灯される蝋燭

 今日、平成27年8月9日は、長崎「原爆の日」です。



 70年前の今日、午前11時2分、アメリカの手に依って、ボックス・カーと名付けられたB29より、プルトニューム型原子爆弾「ファットマン」 が投下されて長崎市の上空で炸裂し、多くの人命が奪われ、長崎の街は壊滅させられました。

 広島の惨劇と同様に、生き残った者は、「ヒバクシャ」として、苦しみの多い人生を歩む事を強いられました。

敗戦から70年の時を経て、日本は物質的には豊かな国と成り、以後、兵器を使った戦争には、直接巻き込まれる事も無く、安穏な日々の生活の中で、70年前に起こった悲劇を忘れて仕舞って居りますが、この「安穏な日々の生活」こそが、先の大戦で命を賭して戦って亡く成られた兵士の方々や、「戦争に於いて民間人をターゲットとはしてはならない」と言う国際法 の大原則を破った対戦国に、殺され傷付けられた民間人の方々の犠牲の基に齎された賜物で在る事を、私達は決して忘れてはならないと思います。




 今日、招かれた料亭の厨房では、午前11時2分に、仕事の手を止め、西の方角(長崎の在る)に向かって、皆で黙祷を捧げました。



 祖父や大叔母を原爆で亡くされている女将の意向に由るモノでした。




 長崎に原爆が投下された、昭和20年(1945年)8月9日に、私達日本人が決して忘れてはならない出来事が、もう一つ有りました。

日本外相松岡洋右簽署《蘇日中立條約



日ソ中立条約 を一方的に破棄したソ連軍が、越境して進行した日です。




 ソ連は、8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル 時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国 の参戦要請を受けた」として宣戦を布告 、事実上、条約を破棄しました。


 9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太千島列島 および満州国朝鮮半島
北部等へ侵攻し、弱体化して居た日本軍は為す術が無く、ソ連軍は一方的な武力によって、民間人を含めた多くの日本人を殺し、殺戮と略奪を繰り返しました。 




当時、中学2年生で、家族で満州に住んで居た知人の男性から聞いた話では、最初に送り込まれたソ連軍の兵士は、刑務所の受刑者を臨時の兵士として仕立てた、統率のとれない暴徒の如き集団で、「金品を奪い、女性を見付けると強姦し、証拠を残さぬ為に相手を殺す」と言う、残虐の限りを尽くす鬼の様な犯罪組織以外の何者でも無かったそうです。



男性は、「儂は、あの頃の事が、今でも忘れられんのんじゃ。儂はソ連が大嫌いじゃ。今でも憎んじょる。」と、語って居られました。



 その後、ソ連は、民間人も含めた多くの日本人を強制連行してシベリアへ抑留し、極寒の地で、真面な食料も与えず過酷な労働を強いて多くの日本人の命を奪いました。




此れは国際法に照らし合わせれば、重大な戦争犯罪です。

 にも関わらず、ロシアが此れについて謝罪した事は在りません。



また、ソ連は、戦乱のドサクサに紛れて、日本の領土を奪いました。


北方領土問題 として、日露の懸案と成り、多くの方々が返還に向けて尽力されて居られますが、北方領土 と申しますと、歯舞群島色丹島国後島 択捉島 、あの4島を思い起こされる方が多いと思いますが、国際法に照らし合わせて言うならば、日露戦争の際に、日本の領土と成った南樺太 までが、現在も日本の領土の筈です。


 この事は、周知の事実で在る筈ですが、日本では多く語られる事は在りません。



私がマスコミを通して聞いたのは、竹田恒泰氏 のテレビ番組の中での発言だけだと記憶して居ります。



東西冷戦 に敗れ、経済的にも政治的にも、強国では無く成って仕舞ったロシアですが、核の武力と、国連常任理事国言う絶対的な立場を背景に、未だに強気の姿勢を誇示して居ます。




世界の各地で、未だに横暴を繰り返し、強健な姿勢を崩す事は在りませんが、ロシアが保有する旧式の核兵器でも、使えば人類を破滅させるに有り余る量を保有して居りますから、中東で行ったような遣り方は、流石のアメリカも強硬な事は出来ないでしょうし、して欲しくは在りません。




それにしても、暑い夏ですねぇ・・・。



 もうすぐ、8月15日の終戦記念日が訪れます。




子供の頃、「戦争に負けたのに、何で敗戦記念日じゃ無ぉて終戦記念日なんかねぇ?」と、父に聞きましたら、



「日本はのぉ、本土決戦言ぅて、日本の国でアメリカやらを迎え打って戦う心算じゃったんよ。


じゃが、それをしたら、大勢の日本人が死ぬ事に成るし、相手の国の兵隊さんも死ぬ事に成るけぇ、それを天皇陛下様が御望みに成りんさらんかったけぇ、ポツダム宣言 ゆぅアメリカやらの言ぅ事を受け入れて、戦争を終わらして、それ玉音放送 言ぅて、自分の言葉で国民全員に戦争の終わりを知らして呉れんさったんよ


日本は、戦争に負けそうなかったが、負けた訳じゃぁ無ぁんで、・・・あのまま、本土決戦に持ち込んじょったら、若しかしたら、アメリカやらも諦めて、戦争が終っちょったかも知れん。


 じゃが、大勢の日本人や敵国の兵隊が死んじょったじゃろおて・・・お父さんも死んじょって、アンタ等も産まれちょらんかも知れん。


 天皇陛下様は、国民だけじゃぁ無ぉて、敵国の兵隊の命も守ってくださったんじゃ。


 アンタ等の命ものぉ・・・それに、産まれて来たアメリカやらの子供等の命もじゃ。」と、話して呉れました。



 父の話は、史実と多少異なる部分は在りますが、当時、小学生だった私には解り易く、今も大筋では此れが真実だと考えて居りますし、右翼思想の持ち主では在りませんが、昭和天皇に大恩を抱いて居りますし、今上天皇陛下を御尊敬申し上げて居ります。



以前から、8月6日の「広島の原爆の日」から、8月15日までの「終戦記念日」までを、「平和週刊」として休日とし、戦争や平和について学び考え、お盆でもある事から、先祖の墓参りや戦没者の供養をし、平和な世を築く礎と成ってくださった事に感謝し、「世界の恒久平和」実現の為に、国民一人一人が何を為し、どう生きるべきかを考える機会とする事を望んで居ります。・・・ アジアの片隅より


# by sakananoojisan | 2020-08-09 11:02 | 反核・平和 | Comments(5)