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暁橋のたもとから

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離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

Death and loss

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PeterFonda 此方より寸借



 8月17日、ジャムを炊きよったら、テレビから流れたニュースに、ギョッとして、テレビの画面に釘付けに成ったんじゃった。



 ピーター・フォンダ氏が、8月16日、カフォルニア州ロサンゼルスの自宅で、肺癌による呼吸不全の為に死去されたと言うニュース・・・。



 ショックが大き過ぎて、それからは、何もする気に成れんかった・・・。



 蒸し暑い所為も有ったんじゃが・・・。



映画「Easy Rider」より 此方より寸借



 映画「Easy Rider」を観たんは、小学生の時じゃった。



 同じ年に催された、「大阪万博」の、何十倍も衝撃を受けたんじゃった。



 銀幕の中の、ピーター・フォンダは、カッコ良過ぎた・・・。



 デニス・ホッパージャック・ニコルソンも、カッコ良かった。



 一偏に虜に成ったんじゃった。



 部屋の壁中に、エルビスピーターのポスターやブロマイドや雑誌の切り抜き写真が貼り付けられちょった。



 自転車の車体に、星条旗の絵柄をペンキで書き込んで、キャプテン・アメリカ号と名付けて書き込んだり、柴犬の子犬に「ワイアット」と名付けて、自転車で引いて走り回っちょった。



 儂は小学生じゃったけぇ、それぐらいで済んだんじゃが、若し19歳じゃったら、影響されて、バックパッカーとして世界中を旅しちょったじゃろぉ・・・。



 それぐらい好きじゃった。


映画『木洩れ日の中で』  此方より寸借



 若い頃は、名優である父・ヘンリー・フォンダの息子として語られ、「イージー・ライダー」で脚光を浴びてからも、アカデミー賞主演女優賞を2度も獲得した大女優である、姉・ジェーン・フォンダの弟として語られ、老いては、娘・ブリジット・フォンダの父として語られる事の多かった彼は、俳優としては不遇で在ったと言えるかも知れんのんじゃが・・・。



「イージー・ライダー」のイメージで語られる事が多かったし、イメージが強過ぎて脱皮仕切れんかったとも言えるんじゃが、日本では公開されんかった作品じゃが、1997年の「木洩れ日の中で」は、素晴らしい作品じゃったし、小さな田舎町で養蜂業を営む初老の寡男が、服役中の息子から預かっていた二人の孫娘と共に、家出して落ちぶれ果て、重度の麻薬常習者へ成り果てていた息子の妻を救い出し、周囲の人々の協力を得ながら、家族としての絆を取り戻していく姿が、ピーターの、人間味の溢れる、そこはかとない枯れた存在感によって、素晴らしい作品に仕上げられちょったんじゃった。



 第55回ゴールデングローブ賞主演男優賞 (ドラマ部門)を受賞し、第70回アカデミー賞主演男優賞候補にもノミネートされたんじゃが、受賞には至らんかった。



 アカデミー賞は、作品の出来栄えとか、演技力の素晴らしさを評価して賞が与えられる訳じゃぁないけぇ、昔ほどの価値は無いし、ゴールデングローブ賞の方が何倍も価値が在ると、儂は思ぉちょるんじゃが・・・。



 素晴らしい作品じゃのに、儂は、この映画を、DVDでしか観た事が無い・・・残念じゃ・・・。


PeterFonda and NancySinatra  此方より寸借



 エルヴィスが死んだ事を知った時、儂は高校1年生、16歳の夏じゃった・・・1977年(昭和52年)8月16日、エルビスは42歳じゃった。



 1935年(昭和10年)1月8日の生れじゃけぇ、生きちょりゃぁ、84歳なんじゃが・・・



 ピーターは、1940年2月23日の生れじゃけぇ、エルヴィスより5歳年下(享年79歳)になるんじゃが、儂が子供の頃から憧れ、儂の人生に少なからず影響を与え続けて来た、この2人のスターは、奇しくも8月16日(日本時間では8月17日)と言う、同じ日に亡くなられたんじゃった。



 4月に書いたブログ記事『憧れた世代の死 』でも書いた事なんじゃが、今年は、儂が子供の頃から憧れた人々が、立て続けに亡くなられたんじゃった。



 儂は未だに、3月26日に亡くなられた、萩原健一氏の死のショックから立ち直れちょらん気がする・・・ショーケン・ロス・・・。



 儂がバイク好きに成ったんは、間違い無く、ピーターの影響じゃった・・・。 



 スウォッチを沢山持っちょるんも、彼の影響じゃ・・・。



 肺癌に起因して亡くなったとは言え、悠々自適な好き放題の人生を歩んでの79歳じゃけぇ、大往生と言えるじゃろぉが・・・。



 何かは知らんが、気力が湧いて来ん・・・。



 プレスリーが死んだ時、儂は16歳の青春真っただ中じゃったけぇ、ぶち悲しかったんじゃが、直ぐに前は向けたし、発奮する原動力にさえ変えられた。



 じゃが、58歳、身体は満身創痍・・・身体の彼方此方の不具合と持病を、騙し騙し日々を過ごしちょる。



 前にも言ぅたが、儂が子供の頃から憧れて来た世代が、70代、80代になってじゃけぇ、亡くなられて行くんは自然の摂理じゃぁ有るんじゃが、切なく淋しい事じゃった。



 その内、儂も、・・・そして共に同じ時代を歩んで来た世代も、日毎に逝く日が迫っちょるんは間違い無いんじゃった・・・。



 生きると言う事は、そういう事の繰り返しじゃと、解る歳にゃぁ成りゃぁしたんじゃが、・・・。 



 日本を代表する俳優じゃった森繁久彌氏が、最晩年に、自分だけが長生きして生き残り、友や同僚だけで無く、自分の子供の世代までも先に逝って仕舞う哀しみを嘆いて居られた姿を思い出す・・・。



 彼の死を知ってから、彼が出演した映画やドラマのDVDを、見るでも無く、見ないでも無く、流し続けちょる・・・。



 此の悲しみが癒えるまで、暫く、夏籠りに入ろぉかねぇ・・・暁橋のたもとから


# by sakananoojisan | 2019-08-19 20:25 | 思った事 | Comments(3)

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全国戦没者追悼式で御言葉を述べられた天皇陛下此方より寸借




 天皇陛下は、8月15日に、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式で、国歌斉唱、安倍総理の式辞、正午の1分間の黙祷につづき、おことばを述べられました。



天皇陛下のおことば(全文)



 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。


 終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、まことに感慨深いものがあります。


 戦後長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。



 今年の5月1日より、元号は「平成」から「令和」へと移り、戦後74年を経て、新たな時代を迎えての、天皇として「全国戦没者追悼式」に於いての、初の御言葉じゃった。



国会議員50人が靖国神社を集団参拝  此方より寸借




 毎年、終戦の日には、超党派の国会議員で結成された「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバー達が、東京・九段北の靖国神社を集団で参拝する光景がニュースで報じられる。




 阿部首相は、2013年12月を最後に、靖国神社への参拝を控え、今年の終戦記念日には、自民党の稲田朋美総裁特別補佐が代理人として玉串料を納めたらしい。




 これとは別に、自民党の萩生田光一幹事長代行や、今話題の小泉進次郎厚生労働部会長らも参拝したらしいんじゃった。




 靖国神社に参拝する事を強烈に批判する、中国や韓国などとの兼ね合いも在るじゃろぉけぇ、自分の信条だけで行動できん立場の方も多いぃじゃろぉ・・・。




首相は8月15日に靖国神社に参拝すべきと言う者、総理は「敗戦の日」にわざわざ靖国参拝すべきではないと言う者、敢えて是には触れず、どぉ考えても実現不可能な、耳に心地の良い理想論を並べて連呼し、支持者を集める集団も有りゃぁ、まぁ様々な人が色々と言いよるんじゃが・・・。




 儂は、いつも言いよる事じゃが、『様々な立場の、色々な考えの人が、其々の信条や意見を論じ合い戦わせながら、程好く折り合いを付けて行くのが民主主義』と思ぉちょるけぇ、色々の考えを持つ人が居り、各々の立場や信条から、色々な発言をし、様々に行動を起こす事は、良い事じゃと思ぉちょるんじゃった。(法律を犯したり、人として許せる範囲を超えない事が大前提じゃが・・・)




 賛同できんかったり、腹立たしく思える事も有りゃぁするんじゃが、誰もが思った事を言える世の中が日本に在る事が、『日本の幸い』じゃと思ぉちょるんじゃった。




靖国神社  此方より寸借




 今年も、8月1日から8月15日の間に、原爆や反核平和に関連した過去のブログの記事を、アーカイブとして掲載さりて戴いたんじゃが・・・。




 毎年、同じ記事を掲載しよるのに、多くの方が購読してくださり、心から感謝しちょります。  




 儂は、東京の伯父が経営する、鳶職の土建会社で、棒芯(ぼうしん)及び重機のオペレーターとして働いちょった頃に、2回、靖国神社に参拝した事が在る。




 父から、「靖国神社にゃぁ、一番上のあんやん(広島弁・兄さん)が祀られちょるんじゃが、儂の代わりに参ってくれんか。」と、頼まれたけぇじゃった。




 以前のブログ記事でも触れたんじゃが、父の一番上の兄(第二子)は、海軍少尉でしたがミッドウェー海戦で戦死され、船と共に海に飲み込まれた為に、出征する前に残された切り取った爪(元々丸刈りだった為、遺髪は残せなかった)だけが墓に納められたと聞き及んじょるんでした。




 父にも儂にも、靖国神社へ参拝する事について、宗教的な思いも、政治的な意図も在りません。




 父には、年の離れた弟を可愛がって呉れ、海軍の最新鋭空母である蒼龍に海軍少尉として乗船していた自慢の兄が、英霊として合祀されている靖国神社に、名代として参って呉れる事を依頼し、写真や父から聞いた為人しか知らぬ伯父じゃぁ在るんじゃが、国の平和の礎として、若くして亡くなられた事を悼み、若し生きて居られたならば、伯父達や伯母達の様に、儂を可愛がってくれたじゃろぉと思うだけで、参拝せずには居れんかったんじゃった。




A級戦犯が合祀されちょるとか、父や儂にとっちゃぁ、どぉでもえぇ問題じゃ・・・知恵の在る人等で論議して、折り合いを付けてつかぁさい・・・儂は「死んだら皆、仏さん」じゃと思ぉちょるけぇ・・・。




 手を合わせて冥福を祈り、平和な世を齎す礎と成ってくださった事に感謝するだけじゃった。




光復節にあたり演説をするムン・ジェイン(文在寅)大統領此方より寸借




 韓国では、1945年8月15日に、朝鮮が日本の統治から脱し、自主独立を取り戻したとし、8月15日を、「光復節」として、様々な祝賀行事や反日集会が催されるようなんじゃが・・・。




 今日は今日で、沖縄県石垣市の尖閣諸島沖で、中国海警局の「海警」4隻が日本の領海に侵入して約2時間航行したとか今朝も北朝鮮が日本海に向けて飛翔体を2回発射したとか、報じられちょったんじゃが・・・。




 とても残念な事じゃが、文在寅にしろ、金正恩しろ、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンにしろ、ドナルド・ジョン・トランプにしろ、習近平にしろ、海を挟んだ我が国の隣国の指導者は全て、自身の保身と利益しか考えていない指導者しか居らず、日本の置かれちょる状況は、極めて危ういんじゃった。




 そんな状況の中でも、「恒久平和」じゃの「反核平和」を念仏を唱える様に唱えよる儂などは、彼等から見りゃぁ、そこいらの草叢の蟋蟀よりも劣る存在にしか映らんじゃろぉし、若しかしたら、昨日の全国戦没者追悼式で天皇陛下が述べられた御言葉さえ、彼等には、絵空事くらいにしか感じんかったんかも知れんのんじゃった。  




 誰しも、自分や自国の利益と安全を最優先にするんは、それが第一義じゃろぉし、仕方の無い事じゃろぉが、トランプ政権の誕生以来、余りにも露骨で恥も外聞も無くなって来ちょる様な気がするんじゃった。




『此れが世界のスタンダード』と言やぁそれまでじゃが、それの辿り着く先は、「第三次世界大戦」の様に思えて、空恐ろしい・・・




国際連合の設立に主要な役割を果たした(左から)ウィンストン・チャーチルフランクリン・ルーズベルトヨシフ・スターリン(ヤルタ会談にて)

Wikipediaより寸借




国際連合は、第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえて、1945年10月24日に、51国で設立された。




 主たる活動目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現の筈なんじゃが、第二次世界大戦の戦勝国である、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国で構成される、国際連合安全保障理事会常任理事国が、絶対的に有利な立場と権限を持っちょるけぇ、公平とは言えんし、無いよりはましじゃろぉが、十分に機能を果たせちょるとは言えんのんじゃった。




 軍縮や核兵器削減に関して言やぁ、弊害になっちょると言うても過言じゃぁ無いじゃろぉ。




 それでも儂は、命がある限り、声を上げん訳にゃぁ居れんのんじゃった。




 戦争で命を奪われた人達の為に・・・


 戦争で苦しみを負った人達の為に・・・


 自分自身の為に・・・


 自分の子供達の為に・・・


 これから生まれて来るはずの、数限り無い子供達の為に・・・




 まぁ、気楽に行きましょぅや‼・・・




 世の中は、成るようにしか成りゃぁせんのんじゃけぇ・・・暁橋のたもとから




# by sakananoojisan | 2019-08-16 17:44 | 反核・平和 | Comments(0)

 今年もまた、暑い夏が巡って来ました ・・・。




 今年は、例年になく梅雨明けが遅かったのですが、梅雨明けとともに、連日の猛暑日で、年齢の所為か身体が順応出来ず、クーラーの効いた所から、クーラーの効いた所への移動を繰り返しながら凌いで居ります。




儂は、夏が大嫌いです。


しかし、『あと何年、夏を迎える事が出来るじゃろぉか?』と、ふと思う時、大嫌いな夏を、愛おしくさえ思える、不可思議な自分の存在を感じます



時代は「令和」へと移り、戦後74年を迎え、8月6日に纏わる、様々な世の中の動きを見聞きし、感じる事が多くなりましたが、今年は、京アニ放火殺人事件」や、吉本興業に関連した報道」が大きく取り上げられている為に 、原爆や反核平和に関連した報道などは、例年に比べると少ない様です。



 儂は、ここ数年、8月1日から8月15日の間は、原爆や反核平和に関連した過去のブログの記事を、アーカイブとして掲載して居ります。



 今年も同じ記事を、「アーカイブ」として予約投稿致しました。



 既に御購読くださった方も居られるでしょうが、亡くなった父や、早くに逝って仕舞った友人達から『託された行いの一つ』として、娘や儂の善き隣人に届けます。





【2011年8月15日 掲載記事】【7月30日・予約投稿】



 今日、8月15日は、「終戦記念日」です。


 とは言うものの、「終戦記念日」と言う祝日は有りませんし、国としても、正式に、「終戦記念日」と言うものを定めて居りません。


 但し、日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催しています。



昭和20年(1945年)8月15日、昭和天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」が朗読放送(玉音放送)されました。



この事を以て、一般的には、8月15日を、「終戦記念日」もしくは「終戦の日」としている様です。



 玉音放送の原文である 「大東亞戰爭終結ノ詔書」 ⇦ 此処をクリック



玉音放送 昭和天皇 終戦の詔書 大東亜戦争終結ノ詔書 ⇦ 此処をクリック



全国戦没者追悼式


 父(昭和9年生まれ)は、終戦の日には、恐らく私が物心のつく以前から、必ず同じ話をしました。




 「ぼうぶらの話」です。



 広島では、カボチャの事を、「ぼうぶら」と呼びます。



 但し、戦前生まれの年配の方だけでしょうが・・・。



 父の話を、そのまま伝えますと、濃度の濃い広島弁に成りますし、非常に長く成りますので、「ぼうぶらの話」として、纏めてみました。




 「ぼうぶらの話」 



 「ぼうぶら」とは、カボチャの古い呼び名です。


 昭和20年8月15日(水曜日)の朝、正夫君は、お父さんに連れられて、お家の在る音戸の港から、お父さんが操縦する漁船に乗って、倉橋島の波多見と言う小さな漁港に行きました。


 お父さんが獲った魚を、お百姓さんの所に持って行き、米や野菜と交換して貰う為でした。


 戦争中の物の無い時代でしたが、正夫君の家は、お父さんが獲った魚を、お百姓さんが、米や野菜と交換して呉れるので、食べ物に困る事は有りませんでした。


 そして、お百姓さんも、自分が作った米や野菜と、魚を交換して貰えるので、お金を使わなくて済みますから、とても助かっていたのでした。

 港に着くと、お父さんが明け方に獲った、沢山の魚を荷車に積んで、山の麓に在る、お百姓さんの家に運んで行き、米一斗と、荷車一杯の沢山のぼうぶらと交換して貰いました。


 正夫君は、甘いぼうぶらの煮物が大好きでしたし、お姉さんが作って呉れる、ぼうぶらの羊羹も大好きでしたから、とても喜びました。


 お百姓さんの家から、港に戻った頃には、もう、お昼を過ぎて居りました。


 港に戻ると、先ずさきに、お父さんは、交換して貰った米を、誰にも見られない様に、舟板の下に隠しました。


 米は、統制品と言って、役所の許可無く取引をする事が、厳しく禁止されていたからでした。


 それから二人で、一個ずつ、丁寧に、カボチャを荷車から舟に運んで居りました。


 すると、「待て!待て!待て!・・・」と、叫びながら、5,6人の男達が、ガンギ(桟橋や海へ下りる石の階段)の上側に駆け寄って来ました。


 「待った、待った。・・・あんたぁ、その、ぼうぶらを持ってく事ぁならんで・・・」と、一人の男が言いました。


 見ると、いつも親切にしてくれている、青年団の人達でした。


 しかし、皆、いきり立った表情をして、手には、天秤棒や鍬を持って構えて居ました。


 お父さんは、「あんた等ぁ何事かいのぉ?…このぼうぶらは、そこの△△さん方で、儂の魚と換えて貰ぉたモンなんでぇ・・・何ぃ言ぃよりんさるんの?」と、言いましたら、


 「そがぁな事ぁ判っちょらぁ‼・・・あんたぁ知らんのんか?・・・さっき、ラジオの放送で、天皇陛下様が、日本は、アメリカやらに降伏する言ぅて言いんさったんじゃ。・・・日本は戦争に負けたんじゃ。」


 「そぉじゃ!・・・じゃけぇ、どがいな事になるやら分からんけぇ、食い物を持って行かせる訳にゃぁいかんのんじゃ‼」と、別の男も言いました。


 お父さんは、男たちの話を黙って聞いて居ましたが、「ほぉかぁ・・・そぉ言ぅ事なら、しょぉが無ぁですのぉ・・・ぼうぶらは置いて行きますわい。」と、言いますと、男達は舟に乗り込んで、さっき運んだばかりの、ぼうぶらを取って行きました。


 荷車の中のぼうぶらも、持って行きました。


 港を見回すと、野菜などを運び出そうとしていた他の舟も、男達に捕まって、米や野菜を取り上げられていました。


 お父さんと正夫君は、空っぽになった舟に乗って、音戸の港に帰って行きました。


 正夫君は悲しくて悔しくて、舟の胴の間で体育座りをして、両膝を抱えて顔を埋め、オイオイと泣いて居りました。


 ふと、舟を操縦している、お父さんをチラリと見ると、ずっと黙った儘でしたが、麦藁帽子の間からジワジワと汗を流しながら、両目からも涙が流れて居るのが見えました。


 お父さんは、それを拭う事も無く、じっと前を向いたまま、舟を操縦していました。


 正夫君は、お父さんが泣くのを初めて見ました。


 海軍少尉だった一番上のお兄さんが戦死した時も、二人のお姉さんが空襲で死んだ時も、嘉人兄さんが原爆で死んだ時も、涙を見せた事は有りませんでした。


 正夫君は、見てはいけない物を見た様に思えて、余計に悲しくなって、また両膝に顔を埋めて泣いて居りました。


 家に帰ると、お父さんは、仏壇の前に正座すると、お母さんと妹や、お兄さん達や、お姉さん達の写真に向かって、「すまんのぉ・・・すまんかったのぉ・・。」と語りながら、一人一人の位牌をさすって居りました。


 正夫君が、「父さん、日本が戦争に負けたけぇ言ぅて、何でオジサン等は、儂等のぼうぶらを取って行くんじゃ。・・・そりゃぁ間違ぉちょる。・・・儂ゃぁ悔しゅぅてならんのじゃ‼」と、言いましたら、お父さんは、


 「えぇか、正夫!・・・あの人等を恨んじゃぁいけんど‼・・・しょぉが無ぁんじゃ・・・戦争に負ける言ぅなぁ、こぉ言ぅ事なんじゃ・・・今は辛抱せぇよ・・・辛抱していかにゃぁならんのんじゃ・・・死んだ人等のためにものぉ‼」と、正夫君の両肩をしっかりと掴んで、抱き寄せて言いました。


 正夫君は、その日の事を、決して忘れる事が出来ませんでした。


 その日から、あの日の辛い気持ちが思い出されて、耐えられなくなるので、正夫君は、ぼうぶらを食べる事が出来なく成りました。


 ( お し ま い )



音戸の瀬戸




 私は、幼い頃から、この話を、毎年、8月15日になると、父から聞かされて参りました。




 子供の頃から父の話を聞いて居ましたし、我が家の食卓に上った事が在りませんでしたし、食わず嫌いと言うのでしょうか、私はカボチャを食べません。




 子供の頃、「戦争に負けたのに、何で敗戦記念日じゃ無ぉて終戦記念日なんかねぇ?と、父に聞きましたら、



「日本はのぉ、本土決戦言ぅて、日本の国でアメリカやらを迎え打って戦う心算じゃったんよ。


 じゃが、それをしたら、大勢の日本人が死ぬ事に成るし、相手の国の兵隊さんも死ぬ事に成るけぇ、それを天皇陛下様が御望みに成りんさらんかったけぇ、ポツダム宣言 ゆぅアメリカやらの言ぅ事を受け入れて、戦争を終わらして、それを、玉音放送 言ぅて、自分の言葉で国民全員に戦争の終わりを知らして呉れんさったんよ


 日本は、戦争に負けそうなかったが、負けた訳じゃぁ無ぁんで、・・・あのまま、本土決戦に持ち込んじょったら、若しかしたら、アメリカやらも諦めて、戦争が終っちょったかも知れん。


 じゃが、大勢の日本人や敵国の兵隊が死んじょったじゃろおて・・・お父さんも死んじょって、アンタ等も産まれちょらんかも知れん。


 天皇陛下様は、国民だけじゃぁ無ぉて、敵国の兵隊の命も守ってくださったんじゃ。


 アンタ等の命ものぉ・・・それに、産まれて来たアメリカやらの子供等の命もじゃ。」と、話して呉れました。




 父の話は、史実と多少異なる部分は在りますが、当時、小学生だった私には解り易く、今も大筋では此れが真実だと考えて居りますし、右翼思想の持ち主では在りませんが、昭和天皇に大恩を抱いて居りますし、今上天皇陛下を御尊敬申し上げて居ります。




以前から、8月6日の「広島の原爆の日」から、8月9日長崎原爆の日8月15日の「終戦記念日」までを、「平和週刊」として休日とし、戦争や平和について学び考え、お盆でもある事から、先祖の墓参りや戦没者の供養をし、平和な世を築く礎と成ってくださった事に感謝し、「世界の恒久平和」実現の為に、国民一人一人が何を為し、どう生きるべきかを考える機会とする事を望んで居ります。



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宮沢 賢治先生




 私が幼少の頃から、心の師として敬愛させて戴いて居ります、宮沢賢治先生が、「農民芸術概論綱要」の中に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉を残されて居ります。



 この言葉を逆から申しますと、「不幸な個人が在るうちは世界平和とは言えない」とも申せましょうか。




 特定の国や個人だけが、豊かで慈愛に満ち溢れた生活をできて居たとしても、それは、真の幸福ではないと言うのです。



 これは、とても厳しく、実現不可能と思われる言葉です。




「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉は、単独で語られる事が多いのですが、この言葉の真意を掴む為には、「農民芸術概論綱要」に込めた宮澤先生の思いを理解する必要があると考えます。




 「農民芸術概論綱要」は、序論から結論に至る、十項目に分けられた短い文章ですが、宮澤先生が残された作品の中でも、非常に難解な作品の一つです。




「般若心経」の様に深遠で、これを専門に研究しておられる学者の方も居られる程で、今から85年前(1926年・大正15年又昭和元年)に表された作品ですが、愚者である私には、理解し得ない境地に在る様です。




 とは言え、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉の中に、私の求める「恒久平和の形」が有る様に思います。・ ・ ・ 暁橋のたもとから




# by sakananoojisan | 2019-08-15 12:00 | 反核・平和 | Comments(3)

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。


by 魚のオジサン