「アーカイブ」・・・瓦片への思い ③




 今年もまた、暑い夏が巡って来ました ・ ・ ・ 今年は、殊更に暑さは厳しく、連日、猛暑日が続いて居ます。


 儂は、夏が大嫌いです。


 しかし、『あと何年、夏を迎える事が出来るじゃろぉか?』と、ふと思う時、大嫌いな夏を、愛おしくさえ思える、不可思議な自分の存在を感じます。


 戦後、73年を迎え、8月6日に纏わる、様々な世の中の動きを見聞きし、感じる事が多くなりました。


 その流れに乗じる訳では有りませんが、以前、儂が書いていた『アジアの片隅より』と申しますブログの記事を、アーカイブとして掲載し、儂が伝えたい思いとして、娘と善き隣人に届けます。

 



【2015年1月26日 掲載記事】【7月14日・予約投稿】

 灯篭流しの光景




 
もう、40年近くも前の出来事なので、正確な日にちは、定かでは在りませんが、大学教授による、瓦片の鑑定結果が出たのは、初秋の事だったと思います。



 社会科学研究同好会(通称・社研)の、放課後のミーティングの時に、大亀先生から報告が在りました。




 先輩達は、一様に喜んで居ましたが、私は心の中では、複雑な思いが渦巻いていて、心から喜ぶ事が出来ませんでした。



 その頃の私は、先生や先輩達の活動に、共に参加して行く事が、微力で在っても、「恒久平和」に繋がる活動だと、純粋に考えて居ましたが、瓦片の件で父に叱られて以来、社会全体の情勢や、周囲の意識の中での自分と言う存在を、客観的に、観たり考えたりする様に成りました。



 そもそも父は、私が瓦片を持ち帰った事を叱ったのでは有りません。



 悲劇の証とも言える瓦片を、宝物でも発見したかの様に、喜び燥いで居た私に、激怒したのでした。




 色々と考えて居る内に、活動に疑問を持ったと言うのでは無く、何が正しく、何が違うのかが分からず、どうして良いのかが、全く分からなく成って居ました。


 私が、「分からなくなった」、最大の要因は、原水協原水禁 の存在でした。

 
 昭和30年(1955年)に結成された 、原水爆禁止日本協議会は、意見の対立により、昭和40年(1965年)に、原水爆禁止日本協議会原水爆禁止日本国民会議 の、2つの団体に分裂しました。



 その経緯については、長く成りますし、私の表現力では、誤解を招いて炎上し兼ねませんので、此処を御読みください。



  此処⇒原水禁は何故二つに分かれているのですか?


 原水協の中の、主流派であった共産党 系の会員と、反主流派とされた社会党 系の会員との、党の意向に由る分裂でした。


 広島の、反核・平和運動を牽引する、この二つの大きな団体は、少なからず、高校生の活動に影響を及ぼしており、当時の私の考えでは、原水禁の方に、幾らか部が在ると観て居りましたが、私が参加していた活動の周囲は、原水協に属する先生方が大半を占めて居たのでした。




 当時の高校生の活動は、安田女子中学高等学校広島県立広島商業高校 山陽高等学校広島県立広島観音高等学校広島電機大学付属高等学校 の、社会科学研究部や同和問題研究部が中心となって、活動して居ましたが、顧問の先生方は、原水協に属して居られた様で、その影響を大きく受ける形と成って居りました。


 私は、そんな思いを誰にも相談出来ないまま、それでも一生懸命に活動に参加し続けて居りました。


 翌年(相和53年・1978年)の2月、広島高校生平和ゼミナール が設立され、それにも携わって居りました。


「政治や、イデオロギー に関係無く、目指す目的が一番大切だ。」と、考えて居たからです。


 私が、伯父の遺品を見せて頂く為に、父の実家を訪ねたのは、その頃の事でした。



 伯父の日記を読んで、触発された私は、高校に入学した頃から読み始めた、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (キング牧師)の伝記や著書や広島と縁が深く中学生の頃から憧れていた、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ (チェ・ゲバラ)の著書を読み進め、比較したり、色々と考えを深めていく内に、どうやら、間違いとは言い切れなくとも、今、遣っている活動は、偏っているように思えました。



 しかし、何を為すべきか、どう進むべきかは、皆目見当が付かないで、周りの勢いに流されながら、日々を過ごして居ました。



 奇しくも、伯父が亡くなった、16歳でしたが、伯父の様に明晰な頭脳も無く、幼少の頃から習っていた柔術や、師事していた占術や、ドライブインでのアルバイト等、遣りたい事が沢山在って、学ぶ事に身が入らず、『伯父さんだったら、どうされただろうか?』と、いつも、想像して居りました。


 そんな風に過ごして居た2年生の春、ある先生から、『生徒会の活動に、お前の力を貸して欲しい。』と、声を掛けられました。



 当時、私の学校 は、『不良校』と目されて居り、小規模な女子商業科と、普通科に、数名の女子生徒が居りましたが、ほぼ、男子校で、当時は、近隣に在りました、広島朝鮮中高級学校 の生徒との対立なども在り、一部、荒れた生徒も居りましたが、進学校でないぶん、伸び伸びとした気風に溢れて居りました。



 「平和運動も、えぇんじゃが、自分が居る学校を良ぉして行く事から始めて行くんも、平和運動に繋がるんじゃないか。」との、先生の言葉に便乗する形で、生徒会の活動に加えて頂きました。



 生徒会の活動に参加してからは、社研の活動から離れ、私なりに、一生懸命頑張りました。


 
 大した成果は上げられませんでしたし、周りの方々に迷惑ばかり掛けて仕舞いましたが、頑張った分だけ、微細ながらも成果が目に見え、遣り甲斐を感じる事が出来ました。




 

原爆犠牲広島の碑


 
 その後、我が校の社会科学研究同好会は、クラブへと昇格し、広島高校生平和ゼミナールの活動 の、中心的な存在と成って行き、私等が拾った瓦片は、「被爆瓦」 と呼ばれる様に成りました。



 昭和55年(1980年)に、私は、京都の大学に進学する為に、広島を離れました。


 
 2回生の時の夏休みに、帰省した私は、久し振りに平和公園を訪ねました折、河原に大勢の人達が下りている光景に出合いました。



 すぐに、原爆瓦を拾っているのだと解りました。


 ワイワイ、ガヤガヤと賑やかに作業している様子を観て、あの日の自分を見ている様で、とても切なく成りました。




 それと同時に、何か、遣り残して仕舞ったモノが在った事にも気付きました。



 先日、私にコメントを下さった、広島の高校生の皆さんへ・・・人生には、後から気付く事が多いのです。




 「もし、あの時、こうしていたら・・・。」と、思う事ばかりです。



 だからこそ、「あの時、あれだけ悩み抜いて選んだ結果だから・・・。」


 「あの時、あれだけ努力して頑張った結果だから・・・。」と、悔いを残さずに、前向きに受け止められる様に、今、出来る限り悩んで考え抜き、出来る限りの努力をなさってください。




 これが、反面教師として、彼方達に未来を託す、愚者である私の願い です。・・アジアの片隅より ⇐ 此処をクリックしてつかぁさい♥​​​​​



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Commented by mamako48722 at 2018-07-15 23:58
おはよう御座います、黃葉(もみじ)です。

じっくりと読ませて頂きました。そしてお父様の諌めの言葉も身に沁みました。
安易に感想を述べる事は出来ません。
胸に留め置きたいと思いました。
Commented by tomoyoshikatsu at 2018-08-06 14:25
こんにちは………

73回の 1日が 半分終わりました
木曜日は 長崎です、、、、

私の故郷です、、、
73年前 父は 瓦礫の撤去に 駆り出されて 被曝しています
還暦を過ぎて直ぐに 逝っちゃいました

岩手でも「 高校生平和大使 」が 反核!反戦!を訴えています
時々 嫌がらせ的な 言葉を吐き捨てる「 、、、、、、 」が 居るようですけど
シッカリと…… 21年 後輩達へ 受け継がれています

この様な 活動に 政府は 昨年ストップをかけました( 国連でのスピーチ )
我が国の 政府がこんなですから
メディアは その事を!痛烈に 批判すべきなんですけど
「 ネコ パンチ 」で した、、、、????
Commented by sakananoojisan at 2018-08-06 18:12
 tomoyoshikatsuさんへ

 儂の如き愚者のブログに、コメントをくださり、有難う御座います。

 今朝方、父の名代も兼ねて、広島平和記念式典に参列して参りました。

 父も、生前、3回、胃や大腸の癌を患い、手術を致しました。

 最終的には、心筋梗塞で亡くなりましたが、死因と成った心筋梗塞や癌を患った事と、被爆した事の因果関係は定かでは有りません。

 ただ一つ確実な事は、被爆者健康手帳を交付されて、どの様な高度な医療も無償で受ける事の出来た父のカルテや病歴は、放射線影響研究所(放影研)の資料と同様に、何らかの形で加害者であるアメリカに齎される事であり、生前、従兄弟から、「叔父さんは、医者代が要らんけぇ、えぇねぇ。」と言われると、「当り前よぉ。モルモットにされちゃっとるのに、医者代ぐらい払ぉぅて貰わんにゃぁのぉ。」と、笑いながら言って居りました。

 笑って現実を受け入れるしか無いのが、「ヒバクシャ」の実情だったと思います。

 今日、大勢の人々が、『恒久平和』を願い、『反核・反戦』の思いを胸に、酷暑の中、集いました。

 儂等の国は、先の大戦の末期、二度にわたって核兵器の民間人に向けての攻撃を受け、多くの尊い人命を奪われ、街は一瞬で地獄の焦土と化し、生き残った者は「ヒバクシャ」として、苦しみの多い生涯を歩む事を強いられました。

 なのに、日本国政府は、2017年7月に採択された核兵器禁止条約交渉に参加せず、条約に反対する立場を表明しました。

 これに就いては、賛否両論あり、各々の意見に、一長一短の理が在り、実は儂自身、どちらが正しいのかは、未だに判断が出来て居ません。

 政府の主な言い分としては、我が国の「平和」は、麻薬の様な、アメリカの『核の傘』によって齎されている、砂上の楼閣の如き、危うい存在で在り、この条約の内容そのものに問題があることに加え、核軍備管理軍縮をめぐる複雑な制度的及び政治的状況を考えると、現状のままでは、この条約は、核兵器国(核兵器不拡散条約[NPT]で核兵器保有が条約上許されている国)以外の国が、核保有をしないという政治宣言に終わる可能性が高いと言うものでした。

 そして、日本がそれに賛同する事は、「核軍縮の実現を遠のけ、自身の安全保障をも危うくする」と言う、極めて尤もらしい言い分だった様に思います。

 儂には、どっ
Commented by eblo at 2018-08-06 20:34
初めまして。
遡って原爆関係の記事を読ませていただきました。
自分の記事が恥ずかしい、心底そう思いました。
原水禁と原水協の仲間割れの頃、こんなことをしている場合ではないでしょう、裏切られたような感じがしたことも思い出しました。

運動経験もなく被爆当事者の知り合いもない立場です。
でも、核兵器に善も悪もない、絶対悪でしかない。
それを書きたかったのです、例え恥ずかしながらの記事でも。

難しい理屈は分かりません。
しかし、たかが土地や権力を欲しいために人殺しの道具を作る、それがどこの国であろうと絶対反対です。

ご意見もあると思いますがご容赦ください。
最後になりましたが、ありがとうございました。
Commented at 2018-08-06 21:02
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2018-08-06 21:47
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2018-08-06 22:56
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sakananoojisan at 2018-08-07 00:39
 tomoyoshikatsuさんへの続き・・・儂には、どっちが良ぇんかの判断は出来ません。

 しかし、政府の遣り方は卑怯者の遣り方で、遣り方に就いては、殆どの部分で賛同できません。

 真に正しいと考えるので在れば、国民に対して、胸を張って、堂々と声を大にして、判り易い言葉で、成り立ちから目指す方向迄を説明し、山道を求めるべきです。

 なのに、コソコソと、どさくさに紛れる様な形で行動して、判り難い形で声明を発表し、よっぽど悪い事をしているのかと疑念を抱かせる程、閉ざされた感じがします。

 そもそも、核問題を含めた国防や、国の安全保障にかかわる外交は、『国民の生命を守る』と言う、国の最重要課題に関する問題で、その場その場の情勢に対応した迅速な行動も大切ですが、50年、100年先を見据えた戦略を示して貰わなければ、安心して貯金も出来ないし、30年ローンを組んで真衣法務を購入する事など、恐ろしくて出来んでしょう。

 広島平和記念式典に、父の名代として参列して居りましたが、安倍首相が、耳に心地の良い演説をされて居られましたが、これまでの経緯が在りましたので、以前の演説ほど、心に響いて来ませんでした。・・・土師より
Commented by sakananoojisan at 2018-08-07 01:41
 snowdrop-momoさんへ

 儂の如き愚者のブログにコメントをくださり、有難う御座いました。

 ブログを書く目的は、人夫々でしょうが、儂の場合、妻の夭折により、3歳の時から、京都の義父母の下で育てて戴いた娘に、儂の近況の他、子供の頃の思い出や、妻との馴れ初めなど、ブログを通して伝える為に書いて居ります。

 普段は、いい加減な記事ばかり書いて居りますが、今回は、過去の記事をアーカイブとして掲載しました。

 ほんの僅かでも、若い方に読んで戴きたかったからでした。

 私は、京都の駅弁大学を卒業し、証券関連の会社に勤務した後、東京の伯父の建設関係の会社を手伝って居りましたが、伯父の死後、学生時代のバイト先のオーナーの御世話で、京都の老舗料亭で修行をして居りました。

 魚の卸業をしたり、市の外郭団体に勤めたり、接骨医院を開業したりした後、再び料理人として、友人の経営する割烹料理店で働く傍らで、料理請負人としても腕を振るって居ります。

 器用貧乏の典型の様な、行き当たりバッタリのえぇかげんな、恥と後悔ばかりの人生を歩んで参りました。

 snowdropさんのブログは、未だ抜粋して読んでいるくらいですが、知的に洗練されていてすてきですねぇ・・・儂の様に、ダラダラと取り留めも無しに書いてるのとは豪い違いです。

 実は、3年前に脳梗塞で倒れまして、治療とリハビリを続けて参りましたが、娘の勧めで、リハビリとボケ防止を兼ねて、5月6日の57歳の誕生日から、休止していたブログを再開した次第です。

 ポツリポツリと、儂なりのペースで書いて参りますので、気の向いた折りに訪ねてやってください。・・・土師より
 
Commented by sakananoojisan at 2018-08-07 02:16
 mlainsaa831611さんへ

 昨日、広島平和記念式典に、亡くなった父の名代を兼ねて参列して参りました。

 松井市長のスピーチは、粗々例年通りで変わり映えがせず、安倍首相のスピーチは、耳に聞こえは良いモノの、若干の情熱しか感じられず、子供たちのスピーチに至っては、言わされてる感(致し方の無い事ですが)が強過ぎて、一つの演出にしか感じられず、余りの暑さの為に、半分ヤケクソになった感じで、立ち尽くして居りました。

 申し訳ない事ですが、亡くなられた方々の御霊を弔い、恒久平和の実現を誓う式典が、最早、儂の中では、行事の為の行事に成って仕舞っている事に気付きました・・・そんな風に感じ始めて、もう、5年に成ります。

 もしかしたら、戦後73年が経ち、大半の人々にとっても、そんな感じなのかも知れないと考えたら、『被爆体験の継承』が叫ばれるのも、こうした危機感の裏返しの様におもえ、何とかしなければと考えて、過去の記事を引っ張り出して、アーカイブとして掲載した次第です。

 実は、3年前に脳梗塞で倒れまして、治療とリハビリを続けて参りましたが、娘の勧めで、リハビリとボケ防止を兼ねて、5月から、休止していたブログを再開した次第です。

 いい加減な粗忽者が書いて居る、適当なブログですが、気が向きましたら訪ねてみてください。・・・土師より
Commented by sakananoojisan at 2018-08-07 02:27
snowdrop-momoさんへ

 【 https://ramages3.exblog.jp/23047890/ 】・・・残念ながら、このURLでは、snowdropさんの姉妹ブログには辿り着きませんでした。

 wdropさんの姉妹ブログが、若しかしたら、儂が思っているブログとは別物かも知れませんので、気付かれたら、再度、正しいURLを知らせてください。・・・土師より

 
Commented by sakananoojisan at 2018-08-07 03:19
 mlainsaa831611さんへ

 初めまして・・・広島の魚のオジサン異、土師祈昌です。

 私の拙いブログなどと、謙遜なさらないでください。

 草花や自然を愛する優しい魂を持ち、自然美を遍く感じ得る感性を持った方のみが書く事の出来る、素敵なブログだと思いますよ。

 原爆の体験と言うのは、真に強烈な様で、義父様にとっても、忘れ様にも忘れる事の出来ない体験だったのだと思います。

 父は、儂が子供の頃には、年がら年中、戦争や原爆の話をして居りましたが、儂が高校生に成った頃から、努めて話さなく成りました。

 その事を、私が社会人になった頃に指摘しましたら、『はぁ、あぐだけ(飽きるだけ)話したけぇ堪えて呉れぇやぁ。』と、苦笑いをして居りましたが、その真意に就いては語りませんでした。

 語る事によって、思い出すのが辛かったのか、もう伝えるだけ伝えたので、語り部としての役目を終えたと考えたのか、ほかに理由が在ったのかは知れませんが、儂は、こう考えて居ます。

 アメリカに対する、怒りや憎しみが収まって来たからだと、そう思うのです。

 私が子供の頃は、20年も経って居りませんでしたので、怒りや憎しみが在ったのでしょう、戦争や原爆の話をする時、必ず、「アメリカの奴が・・・」と、アメリカに対する憎々し気な恨み言がセットに成って、語られていた様に思います。

 それが、四半世紀を過ぎた辺りから、戦争や原爆の話をしても、アメリカに対する感情を言葉にすることが無くなり、次第に戦争や原爆の話をしなくなりました。

 決して、アメリカの遣った行為を、決して許したのでは有りませんが、時の力が、『収めた』のだと思うのです。

 そんな父も、亡くなってから十年を超えました。

 今は、硬めの記事を連載していますが、普段は、適当な緩めの記事を、時々書いて居りますので、気が向いた時に訪問してくださいね。

 儂も、ポツポツと、訪問させて頂きますね。・・・土師より

 
by sakananoojisan | 2018-08-06 08:15 | 反核・平和 | Comments(12)

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。


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